大きな政府
前回の続き。政治にはそれほど詳しくないけど、だいたいの色分け的ぐらいは何となく知っているので、「小さな政府」の後には「大きな政府」の話をば。
政府が小さくなるというのは、基本的には社会で個人の自己責任の範囲が広がる、という点にあります。基本的な考えを簡単に言えば、「政府は金を出さないから、君の生き方には責任も持たない」ということ。これに対し、大きな政府というのは、「政府は金を出すから、君の生き方には責任を持つ」ということ。ただし、この書き方は小さな政府にフェアじゃないので、もう一度書き直すと、
小さな政府
「政府は金を出さないから、君の生き方には責任も持たない。ただし、その分、税金もいらない」
大きな政府
「政府は金を出すから、君の生き方に責任を持つ。ただし、その分、税金は払ってもらう」
ということ。
「小さな政府」「大きな政府」の基本的な考え方
専制君主制から民主制を勝ち取った歴史から、民主主義国家というのは人間の自由を基本としており、最初は個人に政府が干渉しない「小さな政府」な国家だった。だけど、19世紀や20世紀初頭に恐慌が多発したり、人身売買があったり労働条件や社会環境があまり良いものじゃなかったという反動で、20世紀は社会的に規制を作ったり保障をしたりして、すべて人の生活水準をある程度まで高めようという流れになった。だから、憲法25条には、
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
という条文が入っている。
そして、この「社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上及び増進」というのをどこまでやろうか、というのが重要な点。19世紀的な極限の「小さな政府」はほとんど何もしないのだけれど、20世紀的な社会民主主義の「大きな政府」の考えでは、
「国民が最低限度の生活に陥らないように、政府が規制や社会保障でなんとかしましょう」
ということになる。で、21世紀的な「小さな政府」の考えでは、
「最低限度の生活までは保障しますが、最低限度に陥るかどうかは個人の問題なので、その点については国は知りません」
という感じ。日本の場合を見ていると、失業手当は期間限定なので、この最低限度は生活保護のレベルなんだけど、冷房があると生活保護を受けられないケースがある、という世界です。うちは冷房が嫌いなので、冷房はつけないことが多いですがね。
日本の場合の「大きな政府」
日本で「大きな政府」というのがどのようにつかわれているかというと、
「公共事業が多い」=「大きな政府」
というのが一般的なところじゃないかと思う。この国が公共事業をするというのは、やはり20世紀初頭の恐慌とその対策として、ニューディール政策や、ケインズによる「政府の総需要への関与」、というところが発祥になっている。つまり、恐慌対策なのですが、その結果、20世紀後半は概ね大きな恐慌を経験することがなかった。つまり、ある程度の成果はあったんですな。ただし、その結果として、日本のような「土建国家」みたいなものもできてしまった。
しかし、ここまで書いたことを念頭に置いて考えると、どうも「大きな政府」という考えの本来の部分とはあまり一致していない。つまり、日本の場合の「大きな政府」というのは、派生的な「大きな政府」であって、本来の「大きな政府」というのとは違う。どちらかというと、少子高齢化が急速に進む将来こそ、社会保障の支出の割合が大きくなって典型的な「大きな政府」になっていくのではないかと思う。
どの政党だって「公共事業を減らす」と言っているけど、「年金を減らす」とは言っていない。で、本当の意味での「小さな政府」というのは、「年金を減らす」ということ。だから、
公共事業を減らして、小さな政府にします
という言葉には注意が必要。確かに、政府支出の削減は急務だけど、「小さな政府」の言葉の使い方が違うので、後から
「小さな政府にする」というのに賛成なのだから、年金を減らすことにも賛成したわけだろ
と言われてしまう可能性がある。だから、大事なのは、
キャッチフレーズの表面的な意味に惑わされずに、個々の政策に対して具体的にどういう風にアクションすると言っているのか
という点をしっかり把握することだと思う。だからこそ、政党は公約をできる限り具体的に示す必要がある。これ、大事。